「福島に残ったことが正解だった」という証をつくりたい Chance Making Story #11 齊藤 力さんのStory
2011年3月11日 午後14時46分。
三陸沖の海底を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生。震源地からほど近い福島県大熊町と双葉町にまたがる福島第一原子力発電所も大きな揺れに襲われた。
当時、運転中だった同発電所の1~3号機は緊急停止したものの、非常用ディーゼル発電機が稼働。注水、徐熱にかかわる設備は問題なく稼働し、安全上、大きな問題は発生することはないはずだった。
それから約40分後の午後15時27分。地震により15mにも達する大津波が発生。福島第一原発を直撃し、全域が浸水。非常用ディーゼル発電機やバッテリーが浸水により機能を喪失。圧力器内の水は蒸発を続け、炉心を冷却することができなくなった。
結果、地震発生から24時間後の3月12日 午後3時36分。溶けた核燃料のカバーなどから発生した大量の水素が建物の上部にたまり、1号機で水素爆発が発生。次いで3号機、4号機でも水素爆発が発生し、爆発を免れた2号機も含め、放射性物質が外へ漏出。近隣住民たちは非難を余儀なくされた。
現在は除染やインフラの整備が進み、帰宅困難区域を除き避難指示が解除されたが、除染に伴い発生した土壌や廃棄物を可能な限り減容化し、福島県外へ最終処分するまでの間、一時的に管理・保管する中間貯蔵が今なお行われており、齊藤力(つとむ)さんも福島県双葉町にある減容化施設の施工管理技士として働く一人である。
元の生活へと戻る道のりは、過酷で果てしない。多くの人がこの地を去った。だが、齊藤さんは地元・福島で生きる覚悟を決め、復興のために力を尽くす。
「ここで生きていくしかない」
――これまでのご経歴は?
若いときは飲食業で働いてたんだよね。横浜でバーをやって、イタリアンやって、最終的に個室和風居酒屋みたいな店のホールのマネージャー。当時の横浜では珍しかったんだよね、接待につかえるようなきれいな店が。アフターに使えるチャラい店はいっぱいあるんだけど。
ただ、すごく忙しくて体壊しちゃった。当時の飲食店の店長なんてほんとブラックでさ。客と一緒に飲むから毎日ベロンベロンだし(笑)。
それから道路工事の会社に入って白線引きしてたんだけど、あんまり記憶がないんだよね。たぶんお金で選んだと思う。
そのあとは別の派遣会社に入って、お袋の実家がある福島県伊達市で除染工事の施工管理をやることになったんだよね。地元で復興関係の仕事がしたいっていうのもあって。建設業じゃなくてもよかったんだけど、ただ当時、未経験でもできる仕事が除染工事の施工管理だけで、給料もそれなりによかったしね。
――ウィルオブ・コンストラクションに入社した経緯は?
同じ現場にウィルオブ・コンストラクションの方がいたんだよ。で、ちょうどそこの現場が終わるタイミングだったから、その方に話を聞いてみるとウィルオブ・コンストラクションのほうが給料が良いらしくて(笑)。
当時の所長に次の現場の紹介状を書いてもらって、「次こんな現場決まってるんだけど、ウィルオブ・コンストラクションでお世話してくれませんか?」ってことで移ったのが経緯だね。
そのあとは、福島県の富岡町で除染工事の施工管理をやって、除染工事が落ち着いてからは一時、都内に行って首都高の改修工事の現場に入って、2018年からは福島に戻って、双葉町にある廃棄物の減容化施設で働いてます。
――福島県での経歴が長いですが、震災直後の福島で働こうとおもったきっかけは?
地震があった日は、伊達市のばあちゃんの家にいたんだよね。で、ばあちゃんも腰抜けちゃってさ。家も崩れるかもしれなかったから、もう引きずり出すような感じで家から飛び出て。それから余震が続いて、大雪も降ってきて、「天変地異じゃないか」と思ったよね。
その後は避難所生活になったんだけど、原発事故があったでしょ。伊達市は原発から離れた中通りにあるんだけど、俺の周りの友だちはみんな「逃げる」って言ってて。でも、俺はばあちゃんを置いていけるわけなかったからさ。「誰も助けてくれないんだな」っていう世間から見放されたような悲壮感はあったね。「ああ、もうこのままか」って。
でも、どうしようもないから。ここで生きていくしかないんだから、ここでの生業を考えようって気持ちを切り替えるしかなかったね。俺一人だったらどこにでも行って生活できたんだろうけど。ただやっぱり、俺と同じ気持ちで地元に残っている人間もいたから。彼らを見てると、「こいつらと一緒に、ここでやっていこう」っていう気持ちになったよね。
逃げ出した人たちと一緒になりたくなかったって言うと語弊があるかもしれないけど。逃げられなかったっていうのが事実なんだけど。でも俺は逃げなかったし、俺と同じように逃げなかった人たちと一緒にここで生きていこう、福島に永住しようって決めて、この地で落ち着いてできる仕事を探したっていう感じだね。当時はがむしゃらで、そんなことまで考えてなかったと思うけど。
ただ、仕事を通して、福島に残ったことが正解だったっていう証を作りたいんだよね。自分の選択は間違いじゃなかったって。だから頑張ってこれたんだと思う。
――いま思い返して、福島に残るという決断は正しかったと思いますか?
もちろん。今だから言えることなのかもしれないけど。逃げたくなることもあったけど、逃げ場がないし、新しいところでまた一からやるっていうのもね。そんな度胸もないし。でも、背水の陣で覚悟を決めたら、自分でいろいろ勉強するし、いろんな人に聞いて学ぶということが苦じゃなくなったよね。
でも、これまで福島で仕事を続けられてきたのは、所長さんをはじめ、とにかく人に恵まれてきたからだと思うね。
ITを使えない現場ってすごくもったいない
――今回、齊藤さんは国土交通省 東北地方整備局の「東北地方工事安全施工推進大会(SAFETY2023)」で優秀論文を受賞して、現場で働く社員の表彰制度『WILLCON AWARD』(※)でMVPを受賞されることになりましたが、感想を教えてください。
※WILLCON AWARD:期間中にもっとも活躍した社員を表彰する制度で、自薦・他薦問わずに応募が可能。
優秀論文を受賞したことを会社に報告したのも、給料を上げてもらうためにアピールをしたかったからなんだよね(笑)。
そしたら、社内表彰にも推薦してもらって、MVPも受賞しちゃったっていう感じで。こういうインタビューも重いな…っていう気持ちもあったんだけどね。でも、嬉しいですよ。そうそう獲れるもんじゃないし、賞金ももらえるし(笑)。
――論文では「ヒューマンエラーの低減について」について書かれていますが、どのような内容なんでしょうか?
もちろんヒューマンエラーをなくしたいって気持ちもあるんだけど、本当は何をアピールしたかったかって言うと、 建設現場のIT化・デジタル化なんだよね。
建設業界でもやっといろんなIT機器やソフトが出てきたけど、でも、みんな使えてない。せっかくあるのに、使えてない。「使いたい」って人がいても、使えない人が一人でもいるとあまり意味がないんだよね。全員で使わないと情報を共有できないから。
一人でもITに疎い人がいると、「これは使えないよ。今までどおりアナログでいいよ」って言われちゃう。建設業界って、技術を怖がって使ってない人がいっぱいいるんだよね。エクセルも使えないおじいちゃんが同じレベルで仕事してるとかね。そんなアホなことある?って思うけど。
ただ、そういう人を置いてきぼりにすることもできないから。ITを使えない現場ってすごくもったいない、すごく非効率的だなって思いがずっとあったんですよ。
だから、建設現場にITを導入するには、やっぱり強いリーダーシップ持った所長なり支店長なり社長なりが、トップダウンで推進していくスタイルにならないと多分変わらないなって思って、「今はこういう技術があるんだよ」っていうのを広く知ってもらおうっていう趣旨で書いたんだよね。
今の現場でもまだ8割ぐらいしかやりたいことはできてないけど、デジタルサイネージを取り入れたりとか変わってきていて。楽をしたいじゃないけれど、アナログでやっていればそれこそヒューマンエラーが生まれるし、働き方改革の流れもあるんだから、だったら機械に任せられることは任せたほうがいいよね。
――今の建設業界は少しずつ変わってきていますか?
働き方改革が騒がれ出した頃からかな、一気に加速したのは。昔だったらアナログで書類作って、出来高も全部手書きで計算して、竣工図書も分厚いの作ってたりしたんだけど。
あとは、国交省側のデジタル化が進んできたというのも大きいよね。国交省で書類を電子化するようになって、それに引っ張られてゼネコンも電子納品をしているから。写真整理一つとっても専用のソフトも出てきて、昔は本当に1枚ずつ写真ペタペタやってたんだけど、今は自動で振り分けられて写真台帳にできたりとか。
その効果も出てきていて、もう昔のやり方には戻れないよね。
杭を1本打ち終わるごとにホッとする
――建設業界での17年間を振り返って、一番しんどかったことって何ですか?
今思い出してもイヤだったのは、東京の現場のときに、雨の中で図面を持って職人と打ち合わせしたことかな。しかも冬ね。冬の冷たい雨が降る中、紙の図面を持って、びしゃびしゃになりながら「ああでもない、こうでもない」って(笑)。体力的にはそれがキツかったかな。俺、東北育ちなんだけど、東北の土木現場は雨が降ったら中止になるんだよね。でも、東京だと休工にならなくてさ。
精神的にキツかったことだと、これも東京の現場でのことなんだけど、どういうわけかすごく経験がある技術者みたいな扱いで迎い入れられちゃってさ。初めての経験だったのに、「これくらい、分かってるでしょ?」みたいな。こっちとしては鉄筋の図面見ても「ナニコレ?」って感じだったんだけどね。
でも、任されているから必死に勉強しなきゃいけなくて。やっとの思いでついていったって感じだよね。当時は「仕事に行きたくないな」とも思ったよ。
――やりがいを感じる瞬間はいつですか?
やっぱり竣工したときだよね。まだ現場に出ていたときは、杭を1本打ち終わるごとにホッとしたし、なおかつ俺の担当していた千何百本っていう杭の最後の杭を打ち終わった日っていうのはやっぱりすごい感動したし、嬉しかったよね。
しかも、その基礎の上に今、高速道路走ってるわけですよ。下部工だから目立たないけどさ。今後100年もつ構造で作ってるんで、それはやっぱり誇れる仕事だよね。俺、何回走りに行ったかな?自分で杭打ったとこ(笑)。
あとは、今は現場に出ないで工務をやっているから検査が主になるけど、四半期ごとに検査のために書類をまとめたときに「きれいにまとめられてるね」ってお褒めの言葉を検査員さんからもらうと、やっててよかったなって思えるよね。
――自分の仕事に自信を持てるようになったタイミングはありますか?
今もないよ。今の現場が数年後に竣工を迎えたら、次の現場で通用するのかなって不安は未だにあるから。とくに、今って何かモノを造っている現場じゃないし。常に現場で揉まれている人はどこに行っても通用する知識と経験が身につくけど。中間貯蔵施設での現場経験は、この界隈であればキャリアとして認められるかもしれないけど、いつまでもある仕事ではないからさ。
どんな小さな仕事でも、腐らずに
――仕事をするうえで、大切にしていることはありますか?
今はあんまり現場に出なくなって、下請けさんと絡むことも少なくなったんだけど、振り返ってみて苦労したなって思うのは下請けさんとの付き合い方で。やっぱり元請けという立場上、どうしても上から目線になっちゃうんだよね。「こっちは間違ったこと言ってないんだからいいだろう」と思っていても、下請けさんが自信を失って、キツそうに見えるときとかもあって。
そういう経験があってから、今は100歩ぐらい引いて、第三の目で自分と協力会社を俯瞰で見て、「このやり取りはおかしくないかな?」「下請けさんに背負わせすぎになってないかな?」っていう意識を持つようにしている。
それからは、こちらの指示も聞いてくれるし、逆にいろんな情報も上げてくれて、昔と比べるといい関係を築けてきたかな。自分だけがそう思ってるのかもしれないけど。それはモットーというか、これまでの経験から自然とそう振る舞うようになりましたね。
――これからの若い世代にメッセージをお願いします。
「継続は力なり」ではないけれど、大事なのは与えられた仕事をコツコツとやることだよね。仕事を与えられたってことは期待されてるってことだから。どんなちっちゃな仕事でもさ、誰かに求められてるってことだから。
俺が今いるポジションも隙間産業というか、何か特別な技術持ってるわけではないんだけど、自分がこの現場でどれだけ輝けるのか、どうやったら生きていけるのかってことを考えたら、たとえ小さな仕事でも誰もやってないことをやるのが一番だから。デジタル化もそうだけど、みんなが見て見ぬふりをしている仕事を進んでやってみるとか。実は、そういうところのほうが変わりやすかったりするしね。で、そういう取組みのほうが上は評価してくれる。
俺は見栄っ張りだから「仕事ができない」って思われたくなかったってのもあるけど、そういう期待に応え続けることが自分の評価にも繋がるし、俺も今こうやって自由にやりたい仕事をさせてもらえてるのも、これまで我慢して、いろいろ勉強しながらやってきたことを認めてもらったからだと思うんだよね。
だから、皆さんも小さな仕事でも腐らずに頑張っていってほしいなって思います。
齊藤 力さんプロフィール
飲食店での経験ののち、福島で除染工事の施工管理業務に従事。その後、首都高のリニューアル工事現場を経て、現在は福島県の中間貯蔵施設で働く。
チャンスメイキングストーリーとは
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当社を通じて転職に成功された方々の事例の一部をご紹介します。
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