Chance Making Story #01 花畑宗明さん小さな工務店の職人から、
大手ゼネコンの海外技術者へ。

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Chance Making Story #01
花畑宗明さん小さな工務店の職人から、
大手ゼネコンの海外技術者へ。

小さな工務店の職人から、大手ゼネコンの海外技術者へ
アジアに中東、アフリカの現場を渡り歩く男の生き様

職種も、職場も、国も――。常に新しい環境に飛び込み、自己研鑽を続けてきた男がいる。

花畑宗明さんは高校を卒業後、父の背中を追い型枠工になるも会社が倒産。一時、建設業界を離れた。しかし、ふとしたことから建設業界に戻ることになり、技術者へと転身。中東や東南アジアの火力発電所の建設現場で経験を積み、今年から大手ゼネコンが手掛けるアフリカ・ギニアの学校建築現場で働くことが決まっている。

元々、小さな工務店の職人から始まった人生。それが、今では世界を股に掛ける技術者へと変貌を遂げた。その裏には、飽くなき向上心と好奇心、そして妻の支えがあった。

彼はなぜチャンスを手にし続けることができたのか。42歳、花畑宗明さんの半生を追った。

 

花畑氏_1

 

父の背中を追い型枠工になるも、会社が倒産

大阪で生まれ育った花畑さんは、工業高校を卒業後、型枠工となる。父も型枠工だった。「親父はどんな仕事をしているのだろうか」。父の背中を追って建設業界へ入った。

就職したのは、従業員5人の小さな工務店だった。担当したのは、主にマンション建設現場。現場仕事はキツかったが、中習いとして現場をこなす度に身に付く技術に確かな成長を感じていた。

そんな中迎えた、入社9年目の2005年。平成不況の煽りを受け、勤めていた工務店が倒産した。

以降、建設需要・投資はしばらく減少の一途をたどり、建設業界は長らく冬の時代を迎えることになるのだが、自身も建設業界の行く末に一抹の不安を感じていた。

花畑さんは一つの決断を下す。低迷する業界との心中を避けるように、型枠工としての道に見切りをつけた。その後は大手人材派遣会社に転職。人材コーディネーターとして、求職者との面接や赴任対応、会社説明会の企画・運営などを担当した。建設業界からは完全に離れた。

この人材派遣会社に在籍時、今の妻と出会い、結婚。この結婚を機に、妻の実家・長崎に移り住むことになるのだが、それは同時に再転職を意味していた。

何の縁か、移住に当たって知人から紹介してもらったのは、設計会社だった。期せずして、もう一度建設業界に足を踏み入れることになる。

この転職こそが、彼の人生の転機となった。

花畑氏_2

インドネシア、インド、サウジアラビアへ

転職した会社は、火力発電所の設計が主力だった。型枠工としての経験しかなかった彼にとって大きなキャリアチェンジとなるのだが、戸惑いはなかった

最初の1年間は事務所内でCADオペとして経験を積んだ。実直な彼の仕事ぶりはすぐに評価され、海外での火力発電所の建設現場での材料検収員に抜擢。現地での荷受から保管・横持にいたる資材総合管理を指揮することになった。

英語ができないどころか、海外への渡航経験もなかったが、「海外」という響きはとても魅力的に聞こえた。二つ返事で海を渡ることを決めた。

担当した国々は、インドネシアにインド、そしてサウジアラビア。宗教も言葉も異なる国々。花畑さんの前には、様々な異文化が立ちふさがった。

特に衝撃だったのは、インドでの火力発電所の新設工事。現場は、最寄りの空港から未舗装の道を車で6時間走った山奥にあった。

ここでは、日本での常識は一切通用しなかった。鉄骨の梁の上で寝ていた作業員が落下した大ケガを負うこともあった。労働組合がデモを起こし、事務所を襲撃。工事が長期にわたり完全にストップすることもあった。通信環境も未整備で、パソコンからメールを送ろうとすると、1通送るのに30分掛かった。

「現場内を悠々と牛が歩いていたこともあった。邪魔だけど、インドでは神聖な生き物なので邪険に扱うこともできなかった。今思えばあり得ないことの連続だったけど、それが刺激になって楽しかった」と笑いながら当時を振り返る。

どの現場も初めてのことばかりだった。だが、どれも日本では絶対に得られない経験だった。一つひとつの苦難が、彼の血肉となった。海外という新たなステージで、やりがいに満ち溢れた日々を過ごしていた。そんなある日。

会社から設計業務への異動を命じられる。

海外の現場を通して、自身の急速な成長を実感していた花畑さんにとって、志半ばで現場を離れることはどうしてもできなかった。

「現場で働きたい」

その一心で、10年間勤めた設計会社を辞めた。

もう一度、海外で働きたい

これまで型枠工、設計職など、職種自体も転々としてきたが、この転職を機に、施工管理技士を目指すことを決意する。とくに、様々な現場を経験できる派遣という働き方に焦点を絞った。もともと人材派遣会社で働いていた彼にとって、派遣の柔軟な働き方は魅力的に映った。

前職での火力発電所での経験を活かし、横須賀の廃棄物処理場の建築工事で施工管理職として働くことが決まった。その後も茨城の工場建設現場で活躍。技術者としての経験を積んでいったが、彼の心にはある思いが綿々と燃え続けていた。

「海外での経験が忘れられない。もう一度、海外で働きたい」

悶々としながら働いていたある日、アフリカ・ギニアでの学校建築の求人が目に入った。

転職してからは、プラントの施工管理のみを経験し、学校建築の経験はなかった。だが、この機を逃すわけにはいかなかった。ずっと胸に秘め続けた思いを採用担当者に真っ直ぐに伝え、採用までこぎつけた。

ギニアの小学校就学率は約8割と徐々に上昇してはいるが、地方には未だ十分に手が回っておらず、首都と地方間の就学率格差は大きい。成人識字率は約3割で世界的に見ても極めて低く、教育環境は十分に整っていないのが現状だ。

自分の技術で、教育を受けられない子どもたちの力になれる。社会的使命に心が震えた。初めてのアフリカにも恐れなどなかった。

海の向こうには、見たことのない世界が待っている

結婚後、長崎に移ってから、東南アジア、中東、そしてアフリカと、ずっと単身赴任が続く。彼が挑戦を続けられる裏には、妻の理解があった。

「子どももいるので、ずっと単身赴任することに葛藤を覚えることもある。ただ、嫁は子どもが小さいときから『お父さんはね、海外のいろんな国でこういう仕事をしてるんだよ』って言い続けてくれて。今では子どもも、『英語で話せるようになりたい』って言ってくれてね。いつも家にいないけど、良い影響を与えられているかな」

海外で働くことに憧れながらも、「この年齢で海外で働くなんて無理だ」「家族を置いてはいけない」と、なかなか踏ん切りがつかず、一歩踏み出す勇気が出ない人も多い。

だが、振り返れば、花畑さんは常に新しい世界に飛び込み続けてきた。決して臆していなかったわけではない。初めて海外へ渡るときは、不安も大きかった。英語だって、まったくできなかったのだから。それでも、常に自分の心に真正面から向き合い、最初の一歩を踏み出す勇気を決して失わなかった。

こうした前向きでチャレンジングな姿は、挑戦の連鎖を生み出していく。茨城の工場建設現場で同僚だった男性が、海外に挑戦することを決意した。花畑さんの姿に背中を押されたのだ。

「海の向こうには、見たことのない世界が待っている。目の前にチャンスがあるなら、トライしてほしい」

もの静かで、謙虚。だが、誰よりも自分の可能性を信じている。だからこそ、思いがけず現れたチャンスも逃すことなくつかみ続けることができたのだろう。

「アフリカの次は中南米に行きたいかな。そしたらもう、怖いモノがないからね」

屈託のない笑顔でそう言い残し、新たな挑戦の地へと旅立った。

 

 

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